overture

三度の飯よりまるしげが好き。

気がついたら自分と違う意見が平気になってた話

誰に求められてるわけでもないんだけど、そもそも誰かに求められてブログを書いてるわけではないんだけれど、真夜中に思ったことをつらつらと書いていこうと思う。

 

私が初めて「ジャニーズが好きだ」と思ったのは小学校四年生の時だった。というか、この時は「嵐が好き」というのを自覚しただけで”ジャニーズ”が好きだったわけではないのだけれど、とにかく私がジャニーズ事務所に関する物事を好きだと初めて思ったのはまだ年齢が二桁にも及ばないころだった。

そのころはまだ「相葉くん好きだなあかっこいいなあ」と思っているだけで自分がジャニヲタであるという気持ちも自意識もなかった。むしろ「私は”嵐ファン”」という気持ちが強かった(気がする)。10年以上前のことなんてもうあまり覚えていないのだけれど、この考えはちょっと軽く高校入学くらいまで引きずるから多分こんな感じのことを考えていたんだと思う。そんで、自分がジャニヲタだと自覚(自称?)し始めたのは嵐を好きになって5年くらい経ってから。Twitterをはじめたことがきっかけだった。

私の家族は基本的に無趣味を絵に描いたような人が多くて、それまでの私には『趣味にお金を使う』という思考がそもそも存在しなかった。しかしわたしが中学を卒業するころ、世の中にはインターネットが急速に普及し若年層にもyoutubeSNSが広がり始めていた。それに伴い”興味のあるもの”に関する情報を手に入れることがずっと簡単になり、その結果私も『もっと嵐のことが知りたい』と思うようになったのだ。

嵐のことが好きだから、CDがほしい。DVDがほしい。コンサートに行きたい。「じゃあコンサートって、どうやっていくんだろう?」そう思って検索ボックスに『嵐』と入れたのが最後、ジャニーズ×インターネットの魅力に気が付いてしまったのだ。本当はmixiがやりたかったんだけど、当時のミクシィは未成年へのサービスを開放しておらず、更に承認制と来たもんだから私はなくなく日本上陸したばかりのツイッターに手をだしたのだ。2009年頃のツイッターは黎明期で、まだまだユーザーは多くなかった。正直ジャニヲタする上であまり十分な情報が得られるツールとは言いづらいものだったように思う。それでも私は「自分以外の嵐好きと交流する」ことが楽しくて仕方がなくて、来る日もTLに張り付いた。

顔も知らない 住んでる場所も年齢もよく知らない人たちと交流する中で、自分を端的に形容する言葉が必要だった。そこで私は”担当”という便利な言葉を覚えた。「相葉担のアオノです」そう名乗れば新しい人ともとりあえず仲良くなれた。

担当っていう言葉、成り立ちは好きじゃないし素敵でもないとは思うのだけれど、こちらの業界特有の響きと定義があって他に代用できない言葉だなと思う。

このユニークな言葉を使い始めたとき私は初めて自分が”ジャニヲタ”であることを自覚した。

それからしばらく精力的にツイッターで活動を行っていて、交流の幅も視野も大きく広がって言ったのだが、2011年のはじめに私は一旦ジャニーズから完全に離れることになる。

理由はいろいろあるけれどそれも話し始めるといよいよセルフ一万字インタビューとかになりそうなので今回は触れないでおく。

 

ここまでの時期を私のジャニヲタ人生第1期としている。このころの私のジャニヲタスタンスは今の私ととにかく何もかもが違った。

いわゆるリア恋、というのか本気愛とでもいうのか。本気で相葉くんが好きだったし本気で相葉くんと付き合いたいと思っていた。いや今でも本気で丸山くんが好きだし本気で加藤さんと付き合いたいと思ってるけど。そうじゃなくて、現実世界で出会って恋愛したかったのだ。クラスの男の子を好きになるとか、そういうのと同じ感覚で相葉くんが好きだったのだ。いま思うとそんな感覚なのに同担拒否じゃなかったのすごいなあと思うのだが、そういえばあの頃あんまり周りに相葉担っていなかった気がする。当時ツイッターに生息していた嵐クラスタはほとんどカバーしていたと言っても過言ではないほどただひたすら交友関係を広げていたのだが、それでもあまり相葉担の方と交流したことが記憶にないということはやはり無意識のうちに同担を遠ざけていたのかもしれない。貶し愛とかいう、今の自分では考えられないような愛情表現も多用していた。メンバーの気になる部分とか愚痴だったりも垂れ流していたし、今では理解できないけどそういうのをみんなで言い合ってるのがなんだか無性に楽しかったという記憶がある。

で、ここまで前置き的な部分を長くしておいて何が言いたいのかというと、この第1期のアオノはジャニヲタする上で「相葉くんが好き」「相葉くんがかっこいい」「嵐が好き」この三つの感情があれば十分だったということ。それが言いたかった。

私は相葉くんが好きで、嵐が好きで、だから嵐の番組を見る。だから嵐の曲を聴く。だから同じ嵐好きな人と交流する。それだけでジャニヲタ活動の全てがまかなえた。貶し愛だって、「相葉くんが好き」だからついついやっちゃう。「嵐が好き」だけど気に入らないところは気に入らない。そうやって、理屈じゃなくジャニヲタしてた。それが第1期だった。

 

少し時が流れて、2013年の春に私は再びジャニヲタ沼へどぼんするのだが、そこから今日までのジャニヲタ活動を仮に第2期としよう。

第1期の私と打って変わって、第2期の私はとんでもなく理屈をこねくり回すジャニヲタになっていた。どうしてかアイドルに関するありとあらゆる事象の定義や体系を分析しないと気が済まない、そんな体質になっていた。それは加藤シゲアキとかいう人の探究心やら知識欲やらを掻き立てる天才を担当してしまった者の宿命なのか、あるいは1年のブランクの間に私の中で何かが変わってしまったのか……答えはその両方だった。

こんなことを書いてしまったら身バレ必至なのかもしれないが、自分の記録用ブログなのでこの際包み隠さず全て書いてしまおうと思う。2013年に加藤さんを担当した時、私は浪人生だった。いわゆる美大受験というやつをしており、予備校に通って一年実技の勉強をしていた。そんな中で、”自己分析”なるものをひたすらにやらされたのだ。そもそもものづくりとは自己表現でもあるため自己分析が必須なのは往往にして言われていることなのだが、通常美大受験の段階ではそこまで突き詰める必要はないとされている(もちろんするに越したことはないが)。しかし私の予備校時代の恩師は「今だからこそ必要なの」となかなかの重さの自己分析課題を提示し、私は毎日ヒーヒー言いながらも自分と向き合っていた。

「あなたの魅力はなんですか」

「あなたらしいってなんですか」

「あなたにとってデザインとはなんですか」

「あなたは将来どんなデザインがしたいですか」

前ふたつは単純にそのまま自己を分析するものなのだが、後ろふたつは志望がデザイン科だったためこのような質問が出されていた。これらの質問がま〜〜〜〜難しい。自分の魅力ったってそんなもんわっかんねーし解ってたとしても自分で口にするのってどうなのよ!?などと言いたいところだが、恩師曰く「自分の魅力もわからないような人間に魅力的なデザインができるわけがない」んだそうで。そんでもって”デザイン”とかいう言葉がこれまた難しく、平たく言う美術とは似て全く非なるものでそこにほとんどエゴが存在しないのだ。それなのに自己分析だとか作品は分身だとか言われちゃったらちょっとなにそれ矛盾がすぎるじゃありませんの?ってなる。なってた。

発狂しそうになりながらも私はこの鬼畜な質問に対する自分なりの答えを考えに考えに考え、ついには明確なものを導き出した。もうこれが大変なんてものじゃなかった。本当にノイローゼになるんじゃないかと思うくらい頭使った。ネアカで有名なアオノの頭も毎日の自己分析に疲労困憊だった。

しかし頭を抱えて苦悩したその分だけ、答えが出た時の快感は形容しがたいほどのものだった。

自分が考えてる形にならないようなもやっとした思考を言葉という明確な形で表現するということ。

あるいは、言葉にするまで明確に定義づけされていなかったものを自分が描写することで形として生み出すということ。

あるいは、確かに存在するけど明瞭じゃないものの体系を改めて観察して表現すること。

これが体現できたときの快感は凄まじい。私はこの一年でそれを覚えてしまった。

 

ものごとには全て体系がある。それは定義化されているものもあれば、流動的で曖昧なものもある。しかしすべてそこに確実に存在するのだ。それを言葉にして伝えること、他人にも伝わる情報形態に変換して表現すること。とてつもなく好きだと思った。病みつきになった。普段の生活でも頻繁に形ないものについて考えるようになった。

それをジャニヲタ活動に輸入したのだ。晴れて理屈こねくり回す系ジャニヲタの完成である。特に加藤シゲアキっていうクソサブカル正統派イケメンインテリ系小説家ジャニーズがこの欲求と快感を満たすのなんのって、ねえ。

んで、理屈こねくり回すって言ってもなんの理屈をこねくり回してんだって話なんだけど、それはひとまず置いておいてここからまたちょっと視点を変えて展開していきたいと思う。長いよ。夜中になにしてんだろ。

 

私は元来、とても好き嫌いがはっきりしている人間だ。加えてかなり否定的で攻撃的な性格をしている。だから嫌いなものも多かったし、愚痴やら文句もとても多かった。それじゃだめだなと思ったのが、これまた浪人時代なのである。私の嫌いなものの筆頭は、実は他でもない"自分自身"で、だからこそとても偏屈な子だった。そして前述の恩師に出会うのだが、「自分の魅力を知れ」という恩師の言葉はつまり「自分を好きになれ」とほぼ同意だった。

でもこの世で一番嫌いなものを好きになるなんてそうそうできないじゃん。しかも超否定的ガールに一朝一夕でできるわけないじゃん。半分駄々をこねるような気持ちで始めはそう思っていたのだが、受験生に駄々をこねてる暇なんてなかった。本当に時間がなかった。だから私は強硬手段に出た。それは「自分の中のマイナスの感情を殺す」大作戦だった。

そもそもなんで自分が嫌いだったかって、何でもかんでもすぐ文句をつけたがる否定的な性格が嫌いだったのだ。だってマイナスの感情にエネルギーを振るのってめちゃくちゃもったいない。だったらその体力も時間も、思考回路のレパートリーさえ楽しいことや好きなことに使ったほうがうんと有意義でハッピーだと思わないか。

「自分の中のマイナスの感情を殺す」大作戦は、この有意義でハッピーな考えともとても相性が良かった。否定的なことを口に出さないようにすることからはじめて、次に否定的なことを考えないようにする。そのうち否定的な目を自ら殺すことができるようになった。否定的な目を殺すと、対象の魅力的な部分しか見えなくなった。『”デザイン”とは、ものの魅力を伝えること』。「あなたにとってデザインとはなんですか」の質問に対する私なりの回答がこれだったため、この有意義でハッピーな視点で世界を観れるようになってから制作がすこぶる捗った。これが正解なんだと思った。もしかしたら間違ってるかもしれない。でも、時間のない浪人生活の中で見つけた整合性の取れている考えはとりあえずの正解としておきたかった。

 

そのうちに、わたしは否定的な意見を表に出すことができなくなっていた。

出し方を忘れたとかそういうことじゃなくて、出すとどうしようもなく拒否反応が出るのだ。とてもストレスが溜まって、なんだか無性に傷ついて、突然憎悪が湧いてきたりする。それは自分の表現だけじゃなく、他の人が表現していてもそうだった。極端か。そう言われてしまいそうだが、美大浪人生なんて余裕のよの字もない生き物だ。みんなどっかしら頭がおかしくなっている。まじで。

そんな肯定モンスターがすがったのは、他でもないアイドルだった。自分の肯定欲求をすべてアイドルにぶつける。そうすることで否定的な意見を求められた時や 人の否定的意見を聞かなければならない時とのバランスをとっていた。

 

理屈こねくり回して、私はアイドルの肯定できる要素をひたすらに探していたのだ。アイドルとは不思議なもので、肯定できる部分が無限に存在する。しばしば盲目と呼ばれる部類のファンがいる通り、肯定しようと思えばそのすべてを肯定できる。私にとって格好の対象だった。

理屈こねて気持ちよくなって、心ゆくまで肯定の暴力をぶつけて、ついでにこんな感じで文章とか書いちゃって表現欲求まで満たされる。こんな素晴らしい趣味世界中探したって他にどこにもない。

どこまででも肯定できるアイドルのさらに素晴らしいところは、どれだけ理不尽な肯定をぶつけてもすべて受けとめてくれ(ている気にさせてくれ)るところだ。理不尽な肯定とはつまりおもーーーーーーーい愛のようなもので……いや、重い愛なんかよりももっとタチの悪い、捏造を愛してるというべきか、個人の作り上げた偶像を愛するということで、そんなひん曲がった愛を現実世界の人間に向けることは到底許されることではない。誰だって勝手に自分の人格を捏造されてそれに勘違いの愛をぶつけられたくはない。そんな現実世界では許されないことをアイドルは天使の微笑みで受けとめ、さらには「ありがとう」なんていう言葉までくれる。なんと素晴らしいことだろう。アイドルって、他に変えようがない素晴らしい存在だ。

 

そういうわけで、第2期のアオノは「アイドルを肯定するために理屈こねくり回して」ジャニヲタしている。このスタンスでジャニヲタするにあたって加藤さんと丸山くんってまじ最高なんだけどこの時代の日本に生まれてきて良かったって話する?

理屈じゃなくジャニヲタしてたときだってめちゃくちゃ楽しかったし、肯定欲求を満たすために理屈こねくり回してジャニヲタしてる今もすんげー楽しい。どっちが楽しいかって言われても選べない。

 

……いや、もしかしたら理屈じゃなくジャニヲタしてたときの方が楽しかったかもしれない。余計なもの見えてなくて、好きっていう感情が常にドーパミンどばどば排出してくれてたりして、もう2度とあの頃みたいな熱量でアイドルを応援できない気もする。でも、例えば 『あのまま理屈こねくり回すジャニヲタの仕方を知らずに今日まで生きてくる世界線』があったとして、そんなのなんてつまらなくてもったいないジャニヲタ人生なんだろうなあとも思う。個人的にはね。

あと 理屈じゃなくジャニヲタしてるままだったら、きっともう今ジャニヲタじゃない気がする。三年前にNEWSに降りる事実は変わらなくても、現時点で二回目のヲタ卒してそう。そう考えると今のスタンスにたどり着けてよかったなって心底思う。だってジャニヲタより楽しい趣味この世にないと思ってるから。

 

今の自分のスタンスが好きだし、今の自分とアイドルとの関係性も好き。こうやって自分のスタンスがはっきりしてると、自分と違う意見を見ても「なるほどこういう考えもあるのかあ」って比較的素直に受け止められる。もちろん愛があるものに限るんだけども。不満だって、批判だって、そこに愛があることが伝わってこれば読むことはできる。愛があるかどうかなんて同じ対象を好きな人同士ならわりとすぐ判断できるものだ。たとえ応援スタンスが大きく違ったとしても。

 

他人の否定的意見が聞けなかったときの私なら今の、QUARTETTOの感想渦巻く状況にきっと耐えられなかった。でも今は違う。NEWSに、関ジャニ∞に、大好きなアイドルに肯定欲をぶつけて満たされた心はそう簡単に傷つかない。

自分が嫌いだったけど、今でもそんなに好きじゃないけど、他人の意見ですぐ腹を立てたり傷ついたりしてたあの頃の自分より今の自分の心持ちの方がだいぶ好き。

アイドルのおかげでちょっと自分が好きになれてる。気がする。

 

 

 

 

 

いろんな意見感想を見ていろいろ考えてらっしゃる記事やつぶやきを読んで、NEWSが可愛くて可愛くて仕方がない状態の今の自分がこの環境平気なのめちゃくちゃ意外だなと思って分析してみた結果でした。自分の心理状況とかいう形のないものを形にするのきもちいーーーーーっていう記事。